昭和49年05月19日 特別奉修委員



 御祈念前に、北野の秋山さんが、ここでお届けをされます。そのお届けを聞かせて頂いてから、思いましたし、また、申しました事でしたけれど、「本当に秋山さん、こう云う時に人間の幸不幸と云う道がはっきりするんだね」て言うて話した事でした。信心を頂いておると云うだけではいけません。信心を頂いて、本当の信心を頂いておらんとです。やっぱりあのう、いわゆる幸不幸の別れ道に立った時に、不幸の方を取るかも判りません。結局は、頂くとこを頂いておかなければ駄目だと云う事。
 それで話を聞くと、まあ言うなら、大変な言わば難儀な事です。それを秋山さん言われるのに、「本当に、久留米の佐田さん辺りの様に、ああ云う例えば災難に遭われておりながら、もうそれが嬉しゅうして、有難うしてたまらんと言われるのに、自分などうしてこの位な難儀に直面して、こんなにも心が言うなら暗くなったり、動揺したりするだろうかと思うて、仕切りのその事を思い続けた」と云う事。
 それから勿論、毎日ああしてお参りされますから、御理解を頂いておる内に、御理解の内容とか意味が解ったからじゃないけれども、御理解を頂いておる内に、もうそれこそ翻然として、開けてきたと言うのはね、是程間違いのない、一分一厘間違いのない働きを受けておると云う事は、自分の思う様になる事、思う様にならぬ事同じだと気が付いたちゅう。自分の思う様になる事、思う様にならない事。
 しかも此の様に一分一厘間違いのない働きを日々頂いて、それを実感して、はあ合楽に御神縁を頂いたと云う事は有難い有難いと云う事が判っておる。だからそのそりゃ難儀な事に見えるんです。悲しい事でも場合にあるんです。けれども、そう云う一分一厘間違いのない働きの中に起きておる事だからと思うたら、今度は反対に嬉しゅうなって、有難うなって、さあその事を帰って嫁にも話す。まあ家の中の雰囲気にも、中にも、その自分の兎に角今日私はお参りさして頂いて、こんな難儀な問題。
 けれども実際は難儀な問題じゃないんだと。神様の演出だ。神様のお計らいなんだと。それを「今日一日信心の稽古をさして頂いたおかげで、お母さんなこれでもう嬉しゅうして有難うして応えんごとなった」と言うてね。嫁ごに話した所が、その嫁ごもその事にえらい感動して、以来嫁ごと兎に角信心話なんか出来る雰囲気でなかったんだけれども、嫁ごと信心話がもう芯から。だから「私はこう云う難儀な問題に直面してから、嬉しゅうして、有難うして応えんという境地を開いておる。
 あんたになら嬉し有難いと言ったって、とても無理だろうから、けれどもこう云う間違いのない事だから、一つ元気な心だけは出さんのね」というて言うたと云うお届けをしてます。ですから、結局はどう云う事かと言うと、今朝の御理解でありました。そう云う例えば右と願って左になった時ほど大事にさして頂く、それが積もり積もって、万の力にもなると云う今朝の御理解だったですからね。それにはどうでも、日常です。日々です。神様の此の様にも、間違いのない働きと云う。
 働きを頂き現わして行きよらなければ、駄目だと云う事です。秋山さんがいかに日々の信心生活の中にです。本当に神様の間違いのなさに恐れ入ってしまうと何時も頂きよる。思うとる。だから例えばそう云う難儀とか悲しい事に直面さして頂いてもです。どうして久留米の佐田さん辺りの様に、難儀即嬉しい、有難いと受けられるのだろう。と一日その事に心に取り組まして頂いて、練らせて頂いたとこう云うのです。それはその原点、言わばその原点と言うですか。
 どこを原点としておるかというと、一分一厘神様の間違いのない働きを信ずると云う事です。それにはなら、日頃やっぱこげんもう間違いのない素晴らしい神様だと云う事をです。把握しておかなければ、愈々の時にやはり迷いが起こって来る訳です。ここは本当に、有難くお礼を申し上げんならん所。こここそ大体大事にせんならん所なのに、どうして此の様に心が乱れるじゃろうか。有難くないだろうか、どうしてどうしてとそこん所を求めて行く時に、翻然として開けて来る者はです。
 是も一分一厘間違いのない神様の働きの中にあったんだと判った時、心の中にそれこそ嬉しゅうして有難うして、神様はこう云う手を使うて、神様はこの二十四日に仕えられる秋山の宅祭にです。この喜びこの感動を以て、このお祭りに突入して行けると云う事は有難いと気が付いたちゅうんです。私合楽の信心の素晴らしさはそこら辺にあると思うんですね。まずはだから日々、間違いのない働きを頂き現わして頂くだけの信心が頂いておかなければ駄目ですね。
   どうぞ。